畏れるべきもの

2001年9月11日に受けた衝撃の生々しさは、今も全く衰えず、未だ思い出した瞬間鳥肌が立つ。

Wallula / Pixabay

今は「ああ、9月11日だな」とため息をつくくらいで平常の生活を送れるくらいになったので、傷は時間薬に癒やされているとは思えるのだが…あの衝撃を忘れることはできない。
現時点では、一生忘れることができないと思える。

「時間の経過」というのは未知の領域なので、自分が確実に立ち直るという確約はない。
でも、癒えている感触はある。
その経緯が、今の自分の救いになっている。

クリスチャンとしての心情が、実は時間を経るごとに揺らいでいる。
自殺することができなかった絶望から救われたきっかけが信仰なのは間違いないし、そこはブレないのだが、911のきっかけが「信仰」だからだ。
あれからずっと信仰についても考え続け、目を背けることはできない。

教義としての「死の肯定」は、どうしても理解できないし納得もいかない。
それを「人の欲」と捉えられると、命そのものが否定されているように思える。

「信仰のためなら死んでもいい」というのは、やはりおかしい。
「健康のためなら死んでもいい」というのと何が違うのだろう。

 

あれから18年。
変わらない思いがある。
命より大事なものなど、この世のどこにも存在しないのだ。

 

信仰を貫く事は、人間が作り出した欲だとわちは感じている。
畏れるべきは神ではなく、自分の隣に息づく「命」を畏れるべきだ。

雪の上の足跡

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