あれから20年、18年、そして2年

バンドの全国ツアーを見回る旅をしていると、全国に無尽蔵に仲間が増えていく。
聖飢魔IIのエース清水が大好きで、わちと同じ思いを持つ仲間が ツアー毎に各地に増えていた時期だった。

当時は、あまり飲めないクセして酒が大好きだった。(今は飲めて好き)
その土地でのライブが終わると、地元の人と一緒に、いろんな店に飲みに行った。

ある地方でのライブで、たまたま一緒に行ける人がおらず、東京から同行した連れと共にふらっと入った店に、世を忍ぶ仮の姿で聖飢魔IIのメンバーのひとりが現れた。

田舎のディスコ(死語)だったので、客はカウンターにいる地元の女の子三人連れと、わちらと、彼しかいない。彼はこちらを警戒し、近寄っては来ない。
そりゃそうだ、ファンですものなー。

それでも、わちはとても楽しかった。
彼がやってくる前に、とっくにわちは地元三人連れと仲良く騒ぎながら飲んでいたからだ。

店が閉まり、三人連れのうちの一人と彼は、夜の街に消えた。
わちは地元の二人と連れの4人で、次の店に移動して、大いに飲み、写真を一緒に撮り、連絡先を交換し合って騒いだ。

そこへ、なぜか夜の街へ消えたはずの彼がさっきの女の子を連れて現れた。
また同じ顔が狭い店内に集い、今度は全員で朝まで飲んで騒いだ。

「今度は田舎帰った時に、また来るよ!」

その日から二年、わちは約束を果たす。日中に現地へ到着し、ホテルにチェックインした日の夜、一人でその店に入った。
到着した駅の空には、おかしな形の雲が広がっていた。

夕暮れ時に店に入ると、その当時バカ騒ぎした顔が満面の笑顔で並んでいた。
飲んで騒ぎ始めてしばらくした瞬間、世界が揺れた。

棚からボトルが片っ端から落ち、マスターが割れたグラスで指先をケガしたが、8階建てのビルから非常階段で降りる時の灯りが懐中電灯で暗かったぐらいの不便さしかなかった。

ビルから出た時、周囲の雑居ビルの窓ガラスが割れまくっていて、「こりゃデカい地震が来たねぇ」なんて言いながら、吹雪の寒さに女の子たちと一緒に凍えながらも笑っていた。

既に2時間ぶっ続けでウィスキー飲み倒してべろべろ、ホテルまでの道のりですっ転んだりもした。
その後数回の小さな揺れがあったけれど、転んだ理由はそれではなく、雪に足を取られたから。

震度6の烈震。
釧路沖地震だった。
https://goo.gl/nyzCNp

 

 

大阪厚生年金会館のライブには、結構よく行っていた。
そのバンドがライブをやると、一番盛り上がる土地だからだ。
西日本の中心地、太閤のお膝元は集まる人の多さが違う。
知人友人が一気に西日本に広がる機会でもあった。

そんな中で、とても穏やかで優しい女性と出会った。
わちと同様エース清水が大好きで、一緒にエース長官のコスプレをして写真を撮った。
ツアーが始まる前に必ず電話をくれて、同じ場所に宿を取り、深夜バスで早朝到着するわちに付き合って、彼女も自分の街から早朝大阪まで出てきてくれた。
地方ライブ観戦は大体1泊4日(車中2泊)で行くのだが、観光にも付き合ってくれた。

たまたま、あるツアーで彼女は幹事を名乗り出た。わちだけでなく関東の友人全員に連絡をしたのか、10人以上の仲間が集まった。彼女はなんと老舗宿を貸し切りで全部屋借りて、しかも値切ってビジネスホテル並みの料金にまで下げていた。
ツアーが終わったらタクシーで民族大移動、コスプレした状態で夜通し大宴会をした。
ライブより旅行が楽しかった、1993年の思い出だ。

その2年後、阪神・淡路大震災が起きる。
https://goo.gl/brgoms

 

わちは彼女の電話番号に、ことあるごとに何度も何度も電話をかけた。
アドレス帳の彼女の住所欄には、「兵庫県神戸市長田区大塚町」と書いてある。
電話の向こうからは、呼び出し音しか聞こえなかった。

ある日、電話の向こうから聞こえてきたのは「現在使われておりません」。
繋がることはなかった。
3ヶ月後、わちは彼女が災禍に巻き込まれ、亡くなっていたことを知る。
彼女の実家を知らないわちは、今も墓参りに行くことができない。

今気づいたのだが、奇しくもどちらも1月の話だ。


その日は、いつもどおり、だるーく仕事に来ていた。
ゲームユーザーからの文句電話を受ける仕事で、慣れないSV業務に振り回されつつ、現場は仲良くやっていた。
朝8時に到着し、ドトールでまったりロイヤルミルクティーを飲み、向かいにあるビルの4階に上がって仕事をしていた。
その日もくだらねー内容で何度も謝ったりムカついたりしていた。

昼休みを回し終え、先輩SVのMさんが休憩に入り、現場をわちだけで切り盛りする時間になった14時46分、世界が揺れた。

部下3人は全員電話に出ておったんだが、揺られながらも電話をオペレーターの手からもぎとり、「現在センター設置場所で大きな地震が起きている為、おかけ直しをお願いします」と言って了承を得て、もぎ取ったオペレーターを机の下につっこみながら、片っ端から電話を切った。
頭の片隅で、「自分の昼休みは取れないなー」なんて考えてた。

ゆらゆら揺れるモニターを全て伏せ、別の場所にあるクライアントへメッセンジャーで「業務不能、電話出られません。呼損数(電話を受け損ねた数)カウントできるかわかりません」とメッセージを急いで飛ばす。
Mさんが休憩所からすっとんで戻ってきた。

二度目の地震。
もう一度オペレーターを机の下につっこんだ。
わちは内心「もうデカいのは来ない。でも、揺り返しはまだ来るぞ」と腹をくくっていた。

部署の電話は鳴り続けていた。
片っ端からわちが取った。
ほとんどが西日本からだった。

オンラインゲームのカスタマーサポートが仕事だったので、「こんな時に呑気に電話してきやがって…」と内心頭に来ていた。
が、いざ電話に出てみると「大地震が起きたが、募金サイトは立ち上がるのか?」「自分が持っているポイントを返金してほしい。募金活動をしたいのだ」という問い合わせばかりだった。
さすが地震の国のオンラインゲーマーだと、ちょっとうれしくなったが、やっぱり忙しかったので「こんな時に」と腹を立てていた。

何度も繰り返す揺り返し。
震度3~4のレベルで頻発する。

センター長が各部署の点呼を行い、避難指示が出ていることを告知する。
それを聞いて緊張の糸が切れたのか、オペレーターの女の子が泣き出した。
背中をさすりながら「大丈夫! もう大きいのは来ないから、大丈夫だからね」と励ましながら、非常階段を降り、広域避難所である北参道を目指す。

代々木駅を過ぎたあたりで、奇妙な光景に出遭った。
「踊る大捜査線」でよく見た「KEEP OUT」の黄色いテープが道路に貼り巡らされていた。
代々木NOAHが入っているビルの近くで、ガス漏れが起きているらしい。
連爆の可能性があるので、近寄れないのだそうだ。

東京ガスは何やってんだよ。
その時はそんな事を考えていた。

北参道に着く直前、オペレーターの一人が「あるまさん、これ見て!」とワンセグのニュース映像を見せてくれた。
気仙沼の津波。
炎を伴って押し寄せる、一面の泥水。

目の前を見ると、高架線路の上を歩く人、人、人。
山手線は止まっていた。
「爆発の恐れがあります! 近づかないでください!」と叫ぶ警察官。
北参道には近隣から避難してきた、何百人もの勤め人。

電線が、電柱が、世界が何度も揺れる。
地面が止まっているのか揺れているのかもわからない錯覚に陥る。

なんだよ、これ。
何が起きてんだ。

東北地方太平洋沖地震。
通称・東日本大震災だった。


今まで生きてきた中で、震度5クラスの地震体験はもう1回あるのだが、「確か帯広にいた時に起きてる」という程度でいつ起きたのか覚えていない。
だが、結構な頻度で震度4クラスの地震は経験していた。
怖いのは地震ではなく、環境が巻き起こす被害だった。
帯広に住んでた頃は、無駄に広い分、火災や倒壊で巻き添えになる事ぁ考えずに済んだからね。

恐れるべきは、ライフラインが断たれる事なのだ。
そう思い知った。

H.G.K.メンバーの安否はすぐ取れた。
一番時間がかかったのがごんやんで、それでも地震発生から1時間以内。
こういう時、IT大好きっ子が集まるバンドは便利だ。
回線大混雑の前の時点で安否確認ができていた。

その後、自分がリーダーをやってるTROUBADOURの安否確認が取れ始めたが、つくば在住で福島出身のくろちゃんだけ連絡が取れない。
茨城は被害がそれなりにあったはずだ。心配だった。
その後「無事、元気」と連絡が入るまで、一週間かかった。

実家は何とかやってるだろうし、そのうち向こうから連絡が来るだろうと踏んだ。
案の定元気だったし、向こうから連絡が来た。

当日は、新宿から阿佐ヶ谷まで歩いて帰った。1時間ちょい。
ごんやんからは「取引先で片づけをしなきゃならない。今日は帰れない」という連絡が入っていた。

帰宅して真っ先にやったのが、大量にコメを炊く事だった。
阿佐ヶ谷は停電してなかったので助かった。
コメを炊き、片っ端からおにぎりにした。
作ったおにぎりと数枚のタオルをエコバッグに詰めて南阿佐ヶ谷まで歩き、区役所の前で配ってる有志の横に並んで叫んだ。
「おにぎりありまーす! タオルありまーす!」
青梅街道を歩いて帰る人たちに配った。

福島原発の報道は、毎日ニュースで見ていたが、どこか他人事のように思えていた。
その数か月後、妹ダンナが福島原発に関わる仕事をすることになった事を聞き、一気に身近になってしまった。
それでも、現地の方々や鬼妹に比べりゃ他人事なのだけれど。

 

釧路で飲んだ店は、ビルが完全に耐震性を失ってしまい、潰すしかなくなったそうだ。
マスターへ連絡した時には「借金だらけで経営してたから、また店を出すことはできないな…」と寂しそうに教えてくれた。
その後は連絡先の電話が解約され、連絡ができなくなった。

ある日新聞で、釧路沖地震で被災死された方と、釧路沖地震で被災して店を失い、路頭に迷って自殺した中年男性のニュースを読んだ。
マスターだった。

彼女が亡くなった後、わちは何度か神戸を訪れた。
大好きだった異人館も、初めて訪れた時と今では風景が変わっており、別の異人館エリアに来たような感覚に陥る。
街を散策していると、時々見かける「がんばろう神戸」の文字と鎮魂碑。
手を合わせると、近隣の住民なのか年配の女性が「旅行の方? ありがとうね」と声をかけてくれる。
彼女の優しさを思い出す。

釧路も神戸も、地震の爪痕はもうわずかに残っている程度だけれど、岩手・福島・宮城はどれくらいかかるのだろう?


わちにできることと言えば、忘れないことぐらいのちっぽけなものだ。
「支援する」「応援する」といっても何ができるかわからないので、現地の商品を買う程度。
たまに募金したりとか。

でも、こうして、「忘れないこと」が一番大事なのかな?…とも思う。

「復興」が完了するまで、毎年、地震を想う日が、今年もやってきました。
あと3時間半で、14時46分です。

わちにはこうして書いて伝えたり音楽にしたり、生きていたりすることしかできないけれど、それが誰かの支えや心の力になっていられるような存在でありたいと思ってます。

東北地方太平洋沖地震で亡くなられた方々に、心から合掌。
被災されている方々、応援してます。

一緒に今を生きましょう。
あなたにはわちがいます。

雪の上の足跡

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