歴女部活動として1/11にえこちゃんと二人で行ってきたオープンカレッジのお勉強メモをまとめるざます。
完全に俺得用。これ読んでほくほくするのは歴女部の人だけです(`・ω・´)

開講日時:2020年1月11日
開催会場:明治大学駿河台キャンパス リバティーホール


1.謎だらけの前半生

明智氏の社会的地位

若い頃のことがわかっていない > 関係資料が当時隠滅された?
美濃守護土岐氏の一族であることは史料で確認できるので間違いないだろう。

美濃国住人ときの随分衆也。明智十兵衛尉

立入左京亮入道隆佐記
「守護大名」は、当時繁栄した大名の中でも相当ランクが高い地位。
中でも豊かな国である美濃の守護だった土岐氏はトップクラス。
その一族ということで明智氏は社会的地位は高かったと思われる。
「立入左京亮入道隆佐」は京都の財政を司る人物で、明智氏が当時の幕府(室町)の奉公衆だったことがわかっている。

出生地に諸説あり

1>2>3・4>5の順に史料が揃っているらしい。
一番の有力地はやはり1。

  1. 【丹波】岐阜県可児市瀬田(明智城)
    明智城の存在や年代から、この出生地・生年が現在有力だが、明智城の地形が「自然地形では?」という説もある。
  2. 【丹波】岐阜県恵那市明智町(明知城)
    遠山明智氏のルーツ。
    遠山明智氏は「遠山の金さん(遠山左衛門尉)」のルーツであり、北条に属した後徳川の臣下として生き延びた家柄のため、史料が残っているとのこと。
  3. 【丹波】岐阜県山県市中洞(城跡不明)
  4. 【丹波】岐阜県大垣市上石津町(多羅城)
  5. 【近江】滋賀県犬上郡多賀町佐目
    近年新説として挙がった美濃ではない土地。

生年に諸説あり

江戸時代に庶民によく知られた唄に

丹波のねずみ、京へ出て馬を食い

というものがあるが、織田信長は午年であることがわかっているため、この唄を元にすると明智光秀はねずみ年ではないかと考察されている。

  1. 永正13年(1516年:丙子(ひのえね))
    「本能寺の変」時点で67歳。人生50年時代だと、老い過ぎじゃね?
  2. 享禄元年(1528年:戊子(つちのえね)) ※「麒麟がくる」時代考証で採用
    「本能寺の変」時点で55歳。可能性が高い。
  3. 天文9年(1540年:庚子(かのえね))
    「本能寺の変」時点で43歳。この説だと羽柴秀吉・徳川家康より年下になるので可能性が低い。

父の名前に諸説あり

「光」が明智氏の通字なので、光秀の父の名前もこの通字が使われている。

  1. 光綱
  2. 光隆
  3. 光国

この部分詳しく聞けなかった…

【歴女部長えこちゃんから情報】(2020/01/18 10:25追記)

部長のえこちゃん
光秀父親の名前、光綱は資料に出てくる回数が一番多かったから有力なんじゃなかったけ?

あるま
マジか! 完全に聞き逃してたわ…

というわけで、部長から情報きました。

あるま
土岐氏の通字は「頼」。諏訪氏の通字も「頼」なので家ごとのかぶりは気にしなかった? それとも、土岐氏と諏訪氏には関連がある?

斎藤道三との関係

織田信長の正室とされる「帰蝶」は光秀のいとこで間違いないんじゃなかろうか。
(今著名になっている「濃姫」という呼称は「美」から来る俗称で名前ではないという考え方が主流)

道三は明智氏から小見の方を娶っているが、その後斎藤家からの明智氏への待遇が低くなかったことから、小見の方は正室の可能性が高いとのこと。
その待遇から、明智光秀は斎藤道三の薫陶を受けた可能性が高い。
当時の美濃国は臨済宗のお寺がたくさん建立されていたことが史料からわかっている。
当時の「寺」は今でいう「大学」に近く、宗教的施設というよりも学術的施設に近い。つまり美濃は文化の拠点としては大規模なものと考えられ、その国造りを行っていた斎藤道三が文化を重視していたと考えられる。

あるま
そんな斎藤道三の元で薫陶を受けて学んできたんだから、そりゃ頭脳派になるわな。

はぁ…長くなったので、残りは次回!
(まだ1/3しかまとめてない)

ボヤきを追いかける

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